「夜、幾つかの色あざやかな光彩がそのまわりに林立するとき、川は実像から無数の生あるものを奪い取る黯い鏡と化してしまう。不信や倦怠や情欲や野心や、その他まといついているさまざまな夾雑物をくるりと剥いで、鏡はくらがりの底に簡略な、実際の色や形よりもはるかに美しい虚像を映し出してみせる。」


小説「道頓堀川」の最初の部分で、このように夜の道頓堀川を表現されている。

実際に橋からこの川を見下ろしたことがなくても、この一文から、流れる川に沿った夜の道頓堀一角の情景がほんのりと目に浮かぶようである。

そしてこれは川に対すると同時に、ここを舞台とする全ての登場人物が、実像と虚像の狭間に生きる人間達じゃないかと語られているように、読み進めていくうちに感じていった。

夜の帳の中に映し出される虚像の部分と相反した、ネオンの灯が消えた後の欲望の残骸が昨夜のゴミ袋の山となって、間隔を開けて積まれた通りを自分達の生活の場とする人々は共通しているように、どこかみな不安定なのだ。決して、自らこの場所を好んでいるわけではない。定住の地は他にあるはずだと。


邦彦は、、喫茶店「リバー」の手伝いをしながら下宿をする、来年卒業を控えた大学生。

卒業後の身の行く末が決まらないことに、苛立ちを感じ、それは時折やるせない言動や行動に走らせる。

彼にとって、この界隈から抜け出せないことは、将来が見えないことを意味するからだ。

身寄りがないという邦彦の孤独感に、ずかずかと足を踏み入れるような人は、ここにはいない。

リバーの店主である武内も、その息子の政夫、小料理屋のまち子姐さんやストリッパーのさとみ。

自分が背負ったものを降ろすことができないからこそ、相手の重みを語らずとも知ることができる類の人達の中、自分もそうだと気づきながら、いつかすっかり首までつかった自分を想像すると、たまらなく逃げ出したくなるのかもしれない。


昔、玉突きに没頭し、その道で名を馳せるほどになった武内はその頃、妻が行きすがりの画家とも占い師ともつかない男と、息子を連れて駆け落ちされた過去を持つ。数年後、帰った妻に対して、憤る感情をぶつけて蹴った腹が元で、先立たれたという悔恨の苦しみを抱えながら、そのころまだ小さかった息子が一時でも男と一緒に暮らしていたことに拭いきれない腹立たしさも胸に秘めて日々をやり過ごしている。

生前妻が買い求めた翡翠色の水差しを大切に店に飾る武内の目は優しい。例え妻がかつてそのギヤマンに見とれていたのは、共に逃げた男との愛河の色を瞳に投影させていたのだとしても。

不確かな未来にもがく青年と後悔の過去であるが、どこかそれに寄りすがる中年の男。

他の人物にしても、陽炎のように不規則で屈折した光ともいえる感情と行動が垣間見え、それは一見ふざけているようでも、ただ懸命に今を生き、そこから小さな幸福を見つけだそうとする姿に心が打たれる。

ともすれば、淫か陰になりそうな歓楽街という背景を用いているが、青年の目線を通すことによって、爽やかな風を物語全体に吹き抜けさせた宮本氏の感性に脱帽した。



この後、もしかするとこの本を読んでみようとされる方に悪いと思い、内容についてはあまり触れずにおくことにしました。ここから先に私のことがあるのですが、続きはまたまた次回に書かせていただきます。

長くなりすぎて、すみません。

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