「俺は、この件の発端はその記事が原因じゃないかと思ってる」

言いながら煙草に火をつける遼平に、

 「今、きれいにしたばかりなのよ」と幸恵は眉をしかめた。

 「灰皿は、灰がないとただの皿や。そんなもんに意味はないやろ」

彼女のムッとした表情に動じることもなく、涼しい顔で一息白い煙を吐き

 「楠原聡子は、実は少々有名人やったんや」と話を戻した。

 「次男が事故に遭うまでに数回、ある雑誌に手記を綴っている。日常の中で感じる事柄のいわば日記のようなものだが、自閉症児を持つ家族とのネットワーク作りの会で積極的な活動をこなしている彼女自身もまた、自分の病と闘う身であるところに編集者が目をつけたんやろ。実際かなりの反響もあったらしい。同じ境遇を抱える人に勇気を与えるといってね。」

 「いいことだわ」

 「まあね。ただメディアというのは時折、華舞台に上げておきながらその一方では、そこから突き落とす穴を平気で掘る輩もいてる」

 「どういうこと?」

 「その記事を読めばわかるよ」

 窓の外の何もない空を見るともなく首を傾けている彼の、こめかみから頬にかけて走る影が

険しい顔つきに変えているのだろうか。それとも、既に自分だけが知り得ている何かが、まだ知らされていない私にも不穏な空気として伝わってくるのだろうか。

 幸恵は、開かれたページの見出しに再び視線を落とした。

紙面との釣り合いを無視した大きな文字は、まるで嘘や虚勢を隠し通す手段として、攻撃的に大声を張り上げ相手を威圧する人のように、品性を欠いている。


 記事内容の大筋はこうである。


 “息子や家族に対する愛情についての手記で賞賛されていた母親が、裏では頻繁な折檻を行い、そしてまた、兄も弟に対する同様な行為を繰り返していたらしい。立ち会った監察医と親しい人物からの情報で、複数の痣と火傷の不自然な外傷の痕跡が多数見つかったことが何よりの根拠である。また、水事故の現場における兄の行動も怪しく、偶然の不幸じゃないのではという目撃者を名乗る人物も浮上。今後警察は再調査を行うこともありえるだろう。”


 「事故前の手記と同雑誌ではなく顔写真も目の部分を隠しているが、それでも読んでいた人にはわかるだろう。読者からの非難や怒声の電話やFAXが一時はひっきりなしで、家族会は大層頭を痛めたそうだから、多分楠原家の自宅もそういう状況に陥ったと考えられる」

 遼平の言葉がよく聞き取れない。顔をあげたが、読むうちに溢れてきた涙が彼の姿を霞ませた。

 「こんな酷いこと。こんなことって」

 「一応、これを書いた記者も追っかけたが、所詮三文記事を飯の種にしていた奴さ。

今は歓楽街の専門誌で風俗嬢を相手に、体当たりレポートなんてふざけたものを書いてやがる」

 「嘘よ、全部嘘だわ」

 「ああ、裏の取れている情報なんて全くなかった、すなわち信憑性はゼロや。しかし問題は、不慮の事故で家族を亡くした一家に追い討ちをかけた、しかもそれが根も葉もない話と推測すると、負ったダメージは並のものじゃないだろうな。それから数年後に長男の失踪、そして夫に先立たれて今に至る…やな」

 遼平の語気が少し弱くなる。いつも少々ずけずけと感じるほど、はっきりと言う彼には珍しい態度で、それは一層幸恵の胸騒ぎを掻き立てた。

 「それで、信二君の行方は掴めたの?今どこにいるの、どうしているの。教えて」

身を乗り出して覗き込む幸恵の顔を正面から受けた彼の口が動く。

 「俺が調べた結果、恐らくは生きていない可能性が高い」

 頭の片隅に燻っては否定し続けていた結果が現実になる。

 瞬間、幸恵はこの空間やこれまでの時間、それは全部架空であるような錯覚を覚えた。

耳から浸入してきた声も、灰皿から立ち上る煙、聡子、遼平そして今ここにいる自分さえ、色も脈絡もない夢を見ているもう一人の自分が悪戯に描いてしまった物語なのではと思える。

だがすぐさま、それは突きつけられた現状から少しでも離れたいがための悲しい空想だと気付くのだった。